昔のブログ投稿を読み返してみれば、自分がいかに世の中を知らず、残酷なことを平気でしてきた人間かを突きつけられる。苦しむ者の心を直視せず、無自覚に自分の幸せを求め罪を犯し続けてきた。頭では自覚していたから、真夜中突然自分が恐ろしくて泣き出すことは多々あった。今は自覚がそれ以上に深まり心を抉られる。生きてることを恥ずかしいと思うこともある。社会に対してではなく、世界に対して。命に対して。
岡潔の本『春宵十話』、小林秀雄との対談本『人間の建設』、小川洋子と河合隼雄両者の対談本『生きるとは自分の物語をつくること』、 noteでお薦めされた役所広司主演の映画『PERFECT DAYS』などへの感想をまとめてみたいと思ったりするが、もう少し先延ばしにする。なんかもう自分の罪深さに耐えられない。
朝だけ書く元気がある。夕方まで持つ日が時々ある。このサイトを色々いじくることで何とかバランスを保ち気力を持ちこせる日もある。メールやラインをくれる方に返信できずごめんなさい。なぜか書けない。書き出すのにまとめられない。メールよりはラインの方がハードルが低い。私がnoteに復帰した時の記事に非公開アカウントから40以上の応援マークがついてたことに驚いた。いったいどんな方々がわざわざ非公開にして付けてくれたのだろう。何か意味あることを書いていただろうか私。ここまで来てくれる方に差し上げる言葉も持たない。もしラインの連絡でもいいと思ってくれる方は勝手に登録して教えてくれれば。スタンプくらいなら送れるような気がする。こんな人間でもよいならの話。
健康な食生活を送る気力もなく、小麦粉や添加物入りの食品を割と食べるようになってしまい、心臓の上の痛みがぶり返し、深呼吸も難しくなった。日本人の腸に必要なぬか漬けや酒粕もほとんど食せていない。悪循環が増すなと思いつつもそうなってしまう。頭の芯が圧縮機にかけられてるみたい。耳鳴りもひどく、割れそうな頭は相変わらず。パニック症状を繰り返し寿命が縮まったように思う。
パニック発作を抱えていた、今はもう会えない大好きな友達、生きてるのかもう生きていないのか。つらい。会いたい。生きててほしい。パニックがどれほど辛かったか今の私にはよくわかる。突然亡くなってしまった親友になりかけた人、最後に交わした言葉や声、まだ昨日のことのよう。わたしの娘だった猫。新しい猫をお迎えできないのは娘がまだ隣にいるから。毎日感じとるイーハトーボの人の烈しさ。(彼の魂が『もう大丈夫と伝えて』と言ってるなんて言われたけど何の意味があるか。悲しみに対し粗雑な扱いをする人とイーハトーボの人の感覚は無縁に違いない。)
みんな心に沢山悲しみの部屋を持ってると思う。扉を開けてもまたその奥に扉がある。どんどん深く潜って一番奥の悲しみの扉を開けたら何が出てくるか。わたしはその中に、弟への罪悪感がある。父への罪悪感も。自分だけがこれほど成長できたことを申し訳なく思っている。幸せになろうとしてきた自分はなんて残酷な人間だろう。この激しい苦しみを共有できる者はいないと諦めていたが、妹が同じものを持ってると知って少し救われた。
No.1-Bを取り戻す作戦と言葉にしてから数週間過ぎたけれど、あれから一文字も小説文を書けていない。『天秤』は意味もわからず直観が書いたので小説という感じがしない。何より待ち遠しいはずのココナラ依頼の件も日中ほとんど忘れてしまっている。なんてこと。
発達の可能性が高い方々は、もともと脳みそが上質にできていると思う。知能や知性といったワードと親しい場所にいるし、精神の高い方の界隈で子供の頃から多くの時間を過ごして努力して生きてきている。しかし自分ではそんなふうに思わないのだろう。とても謙虚だし自己批判的で無欲に作られているから。だから私の書いたものなんかを見つけて読んでくれたりするのだろう。ところが私ときたら下衆の極みの味も知っている。およそ知性や精神性とはほど遠い世界に身をどっぷり浴して生きてきた。実際の社会でも底辺を彷徨って生きてきたし今も底辺の底辺で生きている。それはともかく自力で生み出した低いものへの愛着が尋常でないから、認識が増したことと釣り合いの悪さ極まりない。だからこんなに低い問題で悩んでいる。畢竟恥ずかしい人間だし、奇異で残酷な人間だ。
噓偽りを脳の熱で溶かして真実のみが見えるようになる。卑金属から貴金属を洗練するかのごとく。おそるべき熱量だ。頭は焼けるような感覚を持つ。
『情緒』も、深い領域にある人の感情を探り当て感じとれる能力のことを指す。(本来学問にもこの力で向かわねばならないらしい。親も教師もやり方を忘れたか。)一番奥にある人の感情は悲しみだ。悲しみに対する緻密で細やかな思いやりの心のこと。
悲しみに寄り添う心は決して強い力で相手を引っ張ったりしない。自分のことは消して、相手の悲しみを真剣に聴き取り感じとる。

先週まで、どんな意味があるかもわからず一人暮らしできるアパート探しを夢中でしていた。店には問い合わせずネットで見つけて自力で現地に足を運び沢山の物件を外から観察した。都内の他千葉にまで足を伸ばした。長い引越し人生大体取り掛かりはこんなふうにやってきたから。自立してひとりぼっちで生きてみたくて。せめて外側の世界はシンプルで何もないものに囲われて生きたくて。脳の中で神経がうようよ蠢いて気持ち悪いから。パーフェクトデイズを観て余計にそう思った。幸い?うちの息子は手が掛からなすぎて中学生なのに高校を飛び越えて大人みたいなところがある。そのせいで自分の子供が自立したかのような錯覚も起きる。(昨年末地元の祭りにて大手芸能プロからスカウトされ一次審査を通過し今月二次審査のために恵比寿の事務所に赴く予定だった息子、ついに「芸能界に興味なし!」とすべてを蹴った。いっときこんな人生もありなのかと思いかけたが結局お互い肩の荷が降りた。)
電車に乗る時間を縮められる某都内のアパート物件の隣に小さな神社があり寄ってみたら主がいたのでぱちり。猫を見てると安らな気持ちになれる。一瞬だったが心に安寧が訪れた。不思議だ。もし地球を中心にして宇宙が存在してるとしたなら同じ理由で猫も人間に心の安らかさとは何たるかを教える使命をもって造られた生命体ではなかろうか。