主観は実体、客観は概念。

「主観」は実体や実感。「客観」は概念や理解……と親和性が高い言葉に思う。

私がよく書く『実存的うつ』『苦悩を創造性と自律心で乗り越える』『利他心』『積極的分離』……これらの言葉。

自分の中にそれが経験としてある人には、『ああこれのことだ』と、紛れもなく実感があり、それは実体であり、主観的な言葉だ。しかしない人には、抽象的に感じたり、比喩で表現された言葉に感じたり、『こういうことを言ってるのだろうか』とイメージや概念として頭で理解することになるはず。

例えば『利他心』をとりあげてみる。
これを聞いたとき、ある人にはごく自然に『自分の中にあるこの思いのことだ』と感じ、素直な言葉として直球で伝わる。言葉の意味が伝わるだけでなく、それの価値がいかほどかを実感として感じるのだ。

人は生まれてくると最初は利己の軸を持っている。幼い子は基本的にわがままだ。それが自然なこと。自分の欲求が満たされるか否かを気にかけている。主観的に生きてるから。しかし社会に適応していくならいつまでもそのようでは社会人として成り行かない。
そこで、適切な「利他心」を自己のうちに育んでいくことになるが、その時に、親や先生など周りの大人から、或いは社会の無言のルールを自ら読み取ることで、「〜こうあるべき」「〜でなければならない」と【外発的動機づけ】(=他者依存)により「道徳的、利他的行動」を学び身につけていくと、外面的には上手く社会生活が回るが内面に歪み(ひずみ)が起き始める。多かれ少なかれ葛藤へ繋がる。その葛藤は、小さな怒りとなり、無意識的な不満となって積み重なっていくこともある。

それは元々他者から伝えられた価値観であり、自身の内面から湧き出た信念にはまだなっていないからだ。もっと詳細にいえば、その価値観を自身の価値観と照らして「再評価」して、主観的な感情、自身の欲求となるほどに内面に落とし込み、迷いのない精神を構築するに至っていないから。あくまでそれは「知、情、意、感覚」のうちの「知」(+外発的な「意」)の状態でしかない。

こういう場合、ある人は周りに受け入れてもらうために、利他的であろうと過度に自己に責務を課して苦しむことになる。模範的であろうとして真面目に取り組み疲弊する。自尊心が充分に育っていないのに自分ではなく他者に愛情を向けるべきとする基準を受け入れると情緒が不安定になり、自我を破壊する。

またある人は、心でそのルールを幾分否定しつつ、元々ある自然な利己心を正当化するための理屈を「知」的に構築する。利他心を基準とする生き方も結局は自分のためにする行為だから利己的生き方なのだ──時間は限られてるので自分の時間は自分のために有効に使うのが正直で賢いやり方だ──と。人が生来持っている意味の利己の軸と同列に置き比較して評価し、自身のうちで概念を体系化し、納得して、飄々とした態度で生きていく。こういう人は社会一般的に冷静で理性的な人とみなされ、意識が高く、個人の権利の主張が謳われる資本主義、民主主義といったイデオロギーの社会において現代的生き方を導く知的リーダーシップをとっていく。

またあるいは「利他心」と聞くと、それは「高潔な魂」だとか「高尚な心、高邁な精神、殊勝なこと」としてやたら高い所にある手の届かない非現実的なもののように表現して無闇に讃えることで、さりげなく距離を置く人もいる。それらの人は調和を重んじる人やクールな現実主義者だ。

またある人は「利他心」と聞くと、それはただの「きれいごとだ」として片付けてしまう。人は誰でも最終的には自分が可愛いはずなのにカッコつけてる、お前は聖人君子か、キリストか、と。揶揄したり、偽善や自己欺瞞だと評価付けて見下げることもある。端的にいって、「嫌い」なのだ。そういう人の一部は、あからさまにこの概念に反逆して自己中心的行動を堂々と外面に表し、社会一般からバッシングされる状況に陥る。人々から愚劣な人とみなされる場合もある。

一方で、幼い頃〜青年期〜大人の時期に、この【外発的動機づけ】である「利他的、道徳的とされる行動ルール」を、自身の内面から湧き出た「〇〇(※)」により意識的に打ち破り、実体としての「利他心」を自分の中に創り出す人が少数ながら存在する。そのような人は、これまで客観視してきた、社会的に有益な概念、優れた道徳基準とされてきた、ルールや規範や常識と捉えてきた、こうした「利他心」が、揺るぎない自己の「主観」に変わる。誰かに求められるからそうするのでなく、自分がそうしたいからそうするのだ。この時点でそれは【内発的動機づけ】(=自己の倫理)へと変化している。

それは今や、社会に存在する「善き」とされる単なる社会的実益の意味での道徳基準などではなく、自分の内面から湧き上がるポリシーへと変貌を遂げた。手の届かない非現実的な観念や知的に捉えた概念ではなく、自己の内部に存在する「実体」の感情、情動、欲動だ。こうなると、もはや誰に揶揄されようが、無闇に持ち上げられようが、冷たい目で見られようが、どうでもいい。それは不屈の自分軸だから。つまり「利他心」と世間で捉えられてきたものが、自分の中にある独立心、自律心により再評価され、自分仕様に新しく作り直されて「実感」「実体」として主観に変わっているのだ。

──このように、それがある人とない人には、同じ言葉もまるで違って感じられることになる。

積極的分離もしかり。経験した人には、紛れもなく実体であり主観的な体験に他ならない。未経験の人には、今のところ理屈や概念や体系的理論でしかない。

(※)ちなみに〇〇とは何か?
これは散々書いてきた「内的リソース」のこと。実存的危機を、精神的身体的な逆境を、サバイブするための内面的武器。想像力、美に対する情熱的な意識、共感的情動の強さ、俯瞰力、好奇心、ユーモア精神と独創性、鋭い倫理観、善へ導かれる心、そして創造性。このリソースを土台として支えている母体が「利他心」「利他の軸」に違いない。このリソースは生まれながらに社会や人間に対し高い「理想」を持つ人が多く有しているはず。

また、ここに書いたことは、ある人とない人の優劣を測るものでは毛頭ない。人は皆違って生まれてきている。人間は皆同じものを見て同じことをできるという見方は残念ながら間違いだ。皆持ってるものが違い、体験が違えば育つものも違い、できることも違う。比較にはそもそも意味がない。
誰もが同じ内的リソースを同じ分量持って生まれてくるわけでないのは当たり前のこと。優劣でも良し悪しでもなく、ただただそうある、というそれだけの話。

もし、養育者からの愛情不足問題を抱えて生きてきた人が、無闇に利他の軸を心に創り出そうとすると自滅するから非常に危険だ。そういう人は自己愛を育み自分を大切にして生きることが最優先事項である。
内的リソースが特別多いわけではない人も、それは人類の中の大多数がそうなので何も悩むことはない。それは痛みが少ない安定した生き方だ。(とはいえその中でも生きづらさは勿論あるし、たくさんの葛藤があり、闘いがある。世間ではこれらの対処法があふれるほど配信されている。)

HSS型HSPだからといって積極的分離をする人は多くない。したくてもできない人もいると思う。HSS型HSP──私がこの人HSS型だなぁと感じている以前紹介した方のツイートを見てみた。

言いたいことは全て実感できる。HSS型は他人との関わりにおいて多くの人と交流を持ちたくない。徹底的に一人が好きなタイプだ。……でも最終的に言いたいことが少し違うように感じる。多くのHSS型HSPは「自分が幸せとなる」生き方を選択するらしい。誰かの救いとなるような生き方をしたいHSS型HSPもいる。違いを作るのは分離経験の有無なのかもしれない。(とはいえこの方も結局仲間を助ける活動をしているのだが。)

だから……。

私が書くことは多くのHSS型HSPにとって諸刃の剣かと思う。誰も彼もが心に利他の軸を創れるわけない。無理をするのはよくない。自分らしい生き方が最善だ。苦しいときは休むべき。他者依存の心で利他的生き方をし始めるのはどうやっても良くない。

私はたまたまHSS因子が異常に強く、常にスリルを求め、内面に自己変革を起こそうとする精神の挑戦者で、それを行いたいという感情や欲求が激しい人間だ(今や『解放されたHSP』だから)。誰も行かない道を行くことに生きる意味を感じる開拓者みたいな気質だからこんな文章を書いてしまっている、ただそれだけのこと。

BUMP OF CHICKENの曲にこんなフレーズがある。

恨まれることなく 笑われることなく
輝く命などない

『オンリーロンリーグローリー』より

輝く命──。世間的評価ではなく己によってのみ下される評価と栄光を求めて生きる命のこと。激しい感情と欲求を持つ刺激追求型人間は、これを目指して生きる傾向にある。偽善だと笑われたり、自己欺瞞だと罵られたり、非現実的だと蔑まれたり、そんな生き方しかできないのかもしれない。人が打ち当たらない壁に打ち当たり痛みを感じるから、多くの人が距離を取り客観的な俯瞰目線で評価しているような概念を、実体のある主観で感じるのだ。