
以前、愛とはつまりオキシトシンである、と身も蓋もないことを書いたことがあるけれど、やはり愛とはオキシトシンに他ならない──と結論するしかないと思った。そして「愛」は、無私となり誰かを救いもすれば、希望を打ち壊し自分や他人を殺しもする。生死を分けるほどの激しい感情を人間の中に呼び起こしてしまう。……それはなぜか? つまりオキシトシンであるこの「愛」は『我々の身体と脳に、強い決心だけでは抑えられない行動を強いるクスリ』だからだ。これは『視床下部の視索上核と室傍核、また卵巣や精巣の双方で生産』される、いわば伝説的秘薬なのである。
オキシトシンの本質は、オペラ『トリスタンとイゾルデ』でワーグナーが表現した愛の力であり、一世紀以上もの間何百万もの人々に熱狂的な解釈をさせてきたものである。
※(『デカルトの誤り』は人間の精神の仕組みを探る上で必読書だと思う。読み返すほどにこの著者只者でないことがわかる。ダマシオ博士の本は全て読みたい。↓)
※(因みに読書難易度を言えば、過去に脳神経学の本を数冊読んでいないと、もしくは脳に強烈な関心がないと読破は難しい。←このように本毎に読書難易度を伝える必要を先日『ゆる言語学ラジオ』で言っててなるほどと思ったから書いてみた。)
デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫 タ 35-1) 文庫 – 2010/7/7
アントニオ・R・ダマシオ (著), 田中 三彦 (翻訳)
ここで私個人の仮説めいた完全なる独り言に入る。↓
このオキシトシンの力は、人々が生存適応の上で作用してきた。つまり移動行動、性的行動、母性行動にそれは表れ、それが社会的相互作用を促進し、交配相手や仲間との絆を生み出してきた。また、オキシトシンの作用は強すぎて厄介な問題を発生させるため意図的に避けられることもある。しかし我々人間は、やはりこのオキシトシンという秘薬に翻弄されつつもバランスを保って生きてきたのだ。それは生きていく環境が楽園ではないからだ。
これはユニバース25の実験(楽園実験と言われる伝説の実験)で見られた最終形態「美しいネズミ」とどういう関係があるだろう? ふとそんなことを考えてしまった。直接的な関連性はないかもしれない。けれども、人は課題を抱える環境にあって初めて愛を使って成長を遂げる(破滅もさせるが概ねそれは成長や存続そのものに必要だ)のだとすれば……、課題のない楽園的環境(完全なる都市生活)で愛は不自然な変貌を遂げ、最終的に美しいネズミを作り出すのではないか? 個人的にはこのネズミの姿は、生きるために過酷な課題を持たなくて済むようになった現代──とりわけ自分の頭で考えなくても簡単に生存手段が得られる世の中──の若者世代の、思考と感情的に退廃してゆくであろう未来に於ける最終形態を予告している部分が少なからずあるように思える。彼らはもはや激しい愛を必要としないだろうから。(私はつい先日日記ブログに『愛に取り憑かれ炎で身を焼く人間の叫びをちゃんと聴き取れる場所にいたい』と書いてしまったが、これはどこか「美しいネズミ」になりたくないという潜在意識が働いていたのだろうか。)
ちなみにこんな本もある。日本では珍しい?
本自体はまだ未読だが言わんとすることは想像できる。いずれポチって、じっくり退廃とオキシトシンの関連性について独自に考えてみたい。(近年私の中で「美しいネズミ」がパワーワード過ぎて頭にこびりついて離れない。)↓
日本人消滅: ジョン・B・カルフーンの実験「ユニバース25」が突きつける絶望の未来
(ヤバめの科学ブックス) Kindle版
久野友萬 (著)
愛──つまりオキシトシンという人類に与えられた秘薬──は、一部の個体を滅ぼしもするが全体として生存と成長と存続のために寄与する人間という有機体にとって必要な物質でありその為に遺伝子に刻まれてきたのだとすれば、やはり安らかな愛の敵──つまり生存を脅かす何か──もまた人類にとって適応力獲得のために必要だったといえるのだろうか。
これが、この世の中に美しいものと残虐なものが共存する理由なのかもしれない、──なーんて。脳神経学の本を読みながら想像の翼を羽ばたかせてみた、夏の朝でした。
美しいネズミ→ もはや社会との繋がりを欲さず自身の容姿(見繕い)にしか関心のない、楽園実験の最後に現れる特徴的な個体。つまり愛もなくし生存本能も消えたわけだ。