直観の標本

これは、no+eクリエイター悟塔雛樹さまの記事を拝読し、影響を受けて読んだ本への私的な感想です。専門性をまったく持たない一般人による身勝手な直感を閉じ込めたものなので、心理学的興味から読まれると困ります。本に関するまともな感想やレビューなどはネット情報や販売サイトなどからご覧ください。

読書機会を与えてくださった悟塔雛樹さまに改めて感謝をお伝えしたく思います。また、ユングに関心が高い方および情報を求めておられる方は、ユングの著作を翻訳されてもおられる悟塔雛樹さまの専門性の高い記事を読まれることを強くおすすめいたします。

私自身は、著名人や学問的に偉大な人物名を持ち出すとき、no+eでの発信に迷いがあります。giftedもそうですが心理学に関わる内容についても、専門知識を持たれる方々に囲まれておきながら、(たとえ発言の権利があろうとも)、私なんぞがいったい何を語れるのか、という感覚に陥ってしまいます。これを上げるのも何日も迷いました。誰かを不快にさせまいかと。迷いに迷った末アップすることにしました。何のためか? 私にとって大事な直感だったからです。どうかその旨ご了承いただければ幸いです。

以下、以前書いた偏った視点からの感想。

読んだ本の感想として、この直感を閉じ込めておきたいのでメモする。私にとっては人生の意味を深めてくれた本だったのでどうしても文字で書き留めておきたい。
むろんのこと心理学におけるユングの功績の偉大さについては、私などが語るまでもないことであり、これはそういう意味の感想ではまったくない。ひたすらに個人的な直感的感想であり、私の人生テーマと直結する個人の閃きの記録である。

※ここでいう「分離」は、積極的分離理論とオーバーラップする部分があるのかもしれないが、直接の関連はないと考えるほうが妥当だと思える。

ユングの二つ目の人格=創造的本能?(個性化として果たすべき自己の真の姿)

二つの人格が自己の内にある。──このように感じることは多くの人に起こり得ることで実際そのように感じている人間は多々いるだろう。No.2の意味するところは個々に大きく違っている。おおかたの場合それはペルソナと素の自分の分離感、また様々な場面で出くわす両面感情のことだ。相反する態度や気持ちが自己のうちに起こることを二つの人格のように感じるのである。しかしその比でないレベルで分離感を覚える人間もいる。それは表面の意識ではなく、深層心理内でもっと劇的に分離しているのだ。ここでいう二つの人格の分離は、社会適合 vs 社会規範からの逸脱、の構図をおおむね意味するはず。これは重大なポイントだ。(規範の逸脱といっても世の中の常識を隅々まで受け入れ承知した上での逸脱のことであり、若者がよくやる浅はかな世間への反抗などではない。)

ユングの場合、それはニーチェやゲーテと同じもので、つまり私が個人的に日々「創造的本能」と呼んでいる精神の刃のことではないかな。これは、内面に自己変革を起こそうとする生まれつき備わっている巨大な潜在的意識のことで、それは白黒付けられない矛盾感や曖昧さにどこまでも耐えてゆける巨大な心の器を持っている。(分離感が強まるたび猛烈に荒れまくる。)普段は老賢人のように深く静謐な視点と激しい自己批判の視点を併せ持ち、ここぞというときに電光石火の勢いで魂を挿し貫き、既存の価値観を破壊してしまう変革の巨大な力のことだ。これを精神の奥にひそめている人は、この世のあらゆる対極的な物事に感じる統御し得ない曖昧なマインドを受容したまま生きる。矛盾や両面感情に対するとても強い耐性を持つ。なぜならそれに耐えることでより高みへ(垣間見える本当の自分の姿へ)行くためのヒントを掴めることを知っているから。それが長い年月並々ならぬ忍耐を自分に強いることを直感で感知している。今すぐに白黒付けないと生きていけない人々とはまったく別の生き方をしている。ユングはその直感を持つ最たる人物の一人だったに違いないのだ。

ニーチェが誤解を受けてきた原因をユングは簡潔に表現している。ニーチェが壮年で発見したものをユングは子供時期から感知していた。ニーチェがこうも世界で誤解を受けている理由の真髄部分がユングの生涯を通して得られるなんて思いもしなかった。ユングはまたゲーテにもそれを見た。この同じ種類のNo.2人格を。

(つまりそれは、あの宮沢賢治もまたNo.2を自己同一視して創造性のインフレーションを起こし命を縮めしてまったということではないのか。いやそうなのだろう。賢治さんも結局、激しすぎた故に両者の統合が難しかったのだ。だから『雨ニモマケズ』で木偶の坊になりたいとあれほどに叫んだのだ。どれほどの苦しみだっただろうか。)

このNo.2と折り合いをつける段階は、積極的分離の統合を思わせるところがあると思った。……思ったが、それに該当しているかは知る術がない。なぜなら本を読んだからといってユングの体験的エピソードの詳細を知ったわけではなく判別する材料に乏しい。単に内面世界における分離の強さだったのか。人格形成としての分離でもあったのか。またユングは基本的には分析者というスタンスで生きた人なはずだが、積極的分離は分析の世界からは見ることができない。分類や分析や知識とは本質が違うものである。それでも、それを思わせたのはやはりユングが高い人格者に思えてしまったからだった。

創造的本能=悪魔、破壊神、そして巨大な器、自分の真の姿

No.2とは、つまり聖書に照らしてみれば、悪魔に相当すると言える。この視点は確かに新鮮だった! そして腑に落ちた。悪魔サタンはアダムとイブの前に創られた美しい天使であり破壊神だ。私はキリスト教にどっぷり二十年間浸かりその意味するところが実感としてわかるので、これを悪魔に喩えることの凄みが痛いほどに感じられた。そうだ、本当にあれは諸刃の剣であるこの激しい創造性のことで、これを捉えた人がシンボル(象徴)として物語に編み込んだのだと思う。(この部分については今読んでる『サピエンス全史』でもアダムとイブの『意識の目が開眼する』[聖書に出てくる表現]と触れていて、人類の大脳の肥大化がもたらした革命的出来事として捉えると尚更理解が深まった。)聖書では『悪』とされるが、この破壊神の精神には本当の本当は、善も悪もないところがミソである。
これは創造性そのものであり、社会適応のための統合する美学の影の存在として脇へ追いやられた精神である。昔の人はこの精神の仕組みが掴みきれず、垣間見た未来の自分の姿があまりに巨大で恐ろしく、畏怖を感じ、それゆえに現在の自己を破壊する可能性を持つ『悪魔』と捉えたのかもしれないな。(私は敬虔さと従順さを重んじる日々の中、長年これに『破滅への思考』と名前を付けて日記を認めていたことを、読書中に思い出した。)
これは幼い頃から覗きみえてしまうものであり、美しく整合性を付けて均衡を保っている既存の価値観をいとも簡単に破壊してしまう、想像を絶する激しい本能のことなのだ。過度激動を持つ人間が垣間見るものでもあるに違いない。それは燦然と光を放つと同時に悪魔、精神の闇そのものともいえる。

だからこそ、No.1とNo.2をついに統合できた──No.1を自身の到着地点として受け入れる覚悟を持った──ユングという人は、なんと器の大きな人間性を持っていたのだろう。No.2を愛でられるのにあえてNo.1こそが居場所だと最後に結論できたユングの覚悟の深さに私は感嘆した。(この春苦しんでいた自分に聞かせてやりたい。)

この本能に翻弄され苦しみ続ける人々のうち幾らかの人物は、そう、No.1を軽視してNo.2と永遠の契りを結んでしまうのだ。それは本当に危険なことだ。でもそうなってしまうのである。それほどにNo.2は力強いから。ニーチェはそれで狂気を経験したと思う。賢治さんもつまるところそれで命を縮めてしまった。自身が病気に伏せっていたにもかかわらず他者を救うために奮闘してしまい死を早めたと言われている。No.1からの完全分離を試みて高次レベルに行こうともがき、道を誤り、かといって当然前のレベルにも戻れないため「破滅」に至る。かろうじて元へ戻れた人はギリギリ一般的な幸せを手に入れて生涯を閉じられるのだろう。
ユングは戻らず、さらに分離の極みへ行こうとした人のように私には思えた。これはすごいことだ。これほどの精神パワーを持つ人物が、哲学ではなく心理学という分析の世界にもいたのだと驚く。この荒れ狂う精神の刃を鎮める到達点(落とし所と言えばよいか)を直観により見事に獲得したユングの、その瞬間に起きたとてつもない歓喜と魂の静けさに思いを馳せたとき平静でいられる人がいるだろうか。感極まって泣いてしまった。しかし一方でこれを自身の実体験と照らして感じられる人は少ないのだと思う。だからこそユングがこれを人に話しても胡散臭く思われたのだろう。人格の分離感が強い人は、ユングの生涯に、心理学者としての偉大なる功績の陰に潜むこの人間性の奥行き、精神の飛躍の大きさに心を抉られると思う。私は思い切り抉られてしまった。

ユングがこうも偉大な人である所以は、私的に言えばここだ。つまり彼は、自然科学と人文科学の両極をそれぞれ熱心に同時に探求し続けた。ユングの父親いわく「知って、信じる」(これは宗教のみならず科学についてもいえると思う)ではなく「経験して、知る」をユングは真実とし、その生き方を貫いたからだと思う。これこそ岡潔がいう「情緒」、西田哲学の「純粋経験」「善」とも通じているものであるに違いない、と予感で胸が満たされた。西洋と東洋それぞれの精神、父性と母性、現実と非現実、従順と破壊、あらゆる対極を肌身に感じながら生きられる人の懐の大きさに圧倒される。ニーチェが、『愛とは、自分とまったく正反対の感性を持つ人を、そのまま喜ぶこと』と言っているが、ユングの、人類全体に対する愛情の深さでもあるに違いないと思った。

経験、体感(つまりこれが実存)、これがもたらす意味深さをユングは感じ取りすぎていたからこそ苦しみ、『知って信じる』を拒み、そして常に人情味ある面白くユーモアあふれる魅力的な人柄であり続けたのだろうと思う。それはもしかしたら、自己の威厳こそが最重要であったフロイトと対極を成しているのかもしれない。専門的な意見は持てないが。ユングの素晴らしさの密かな実体は、心理学界にもたらした歴史的貢献、学術的な功績の偉大さの裏に息づいているその人間性にあるではないかとつくづく感じられた。

私にとっては、心理学の巨人ユングが持っていたであろう過度激動と彼が人生で辿った分離と統合の凄まじさを感じ取ることができた素晴らしい読書体験だった。

……以上。
またまた身勝手な語りを重ねてしまった。
申し訳ない。

 

蛇足的雑文+小川洋子

河合隼雄氏の著作は最低でもあと二冊読まなければならないのですよ。うち一冊は先の記事で取りあげた精神科医の先生にネット上で直接お薦め頂きまして。またもう一冊は小川洋子さんとの対談なのです……!! これは何を意味しているのですかね。読了すればわかるでしょう。私は小川洋子が好きで好きで仕方ない人間です。はい。この作家を尊敬してやまない一読者としては、未読ながらこれが楽しみすぎて興奮の抑え方がわかりません。(確か彼女は数学者とも美について対談されているかと思う。)ちなみに、小川洋子が特別な作家に思えるのは、日本語の美しさ、繊細で透明感あふれる世界観の作り込みの素晴らしさのみならず、この作家の作家精神に魅了されているからです。

世界はいつも多くの人間の共感を得ようと動いています。ほとんどの人間は、社会で目立つ人々の影響を受けて自分の価値観や人生観を評価しています。しかし人間社会の陰に埋もれ、誰からも注目されない魂があります。常に見過ごされ、時に見下され、発見されたときは「ああ、自分はこんな立場の人間じゃなくてよかった」などと見る者に優越感を与え、存在自体が他者の人生の肥やしにされているような、「哀れ」とレッテルを貼られているような、吹いたら消えてしまうような心許ない存在です。こんな物陰に潜んで息をしてる存在を、文章という力で掬い上げ、その小さな命にも輝きがあることを教えてくれる、それを美しい日本語で表してくれる作家。こんな作家が日本にいることを日本人として誇りに思わない人がいるでしょうか。繊細で慈愛に満ちたその感性に、無垢と時に毒すら入り混じる情緒あふれる彼女の表現力に、心奪われない人がいるでしょうか。『博士の愛した数式』『ことり』『人質の朗読会』『密やかな結晶』(←これはハリウッド化されるらしく楽しみ)私にとって極め付けはリトル・アリョーヒンの物語『猫を抱いて象と泳ぐ』でした。私はこの話で、天才は自身が報われるためだけに存在するのではないことを感じ取りましたね。読んだ方はわかると思うけれど、才能に対するなんという視点でしょうか。彼の温かみは才能にあらず、痛々しいまでのその純真な心にありました。この本で苦しくなるほど泣いた場面が少なくとも二か所あり、その感情は寂しさでもあり、人間という存在への賛美でもあり、けれどもやはりひたすらにそれは孤独な魂への愛でした。……ああ、熱くなりそうなのでこの辺で。

人は幸せになるために生きている、という価値観の人に一読していただきたい。


蛇足の上塗り

ユングの専門は精神分析心理学だったが、その生涯から学べるものは、人間性心理学の本質でもあるのではないか。そんな印象を持った。

No.1 社会適合のための人格
No.2 破壊して再生する精神

この大きな分離を経験し(この分離感が並々ならぬものだったことがわかる。ユングが深層心理に垣間見た破壊神は巨大過ぎたのだ)、統合を目指した人の生涯であり、数少ない「成功者」の例だと思った。(おそらくニーチェも、賢治さんは確実に、これが不可能だったのに)ユングは最善の形で成し遂げたのだと思われた。深淵を覗かせ高みへ引っ張り上げる精神と対峙するルートを辿る人間の生き様という観点から紐解いてみれば、ユングは人類の中で稀な体験をした人物なのだということが、この本に出てくる数々の表現から(ユング曰く)『直接的理解』として伝わってきた貴重な読書の体験だった。

ユングはそれを何十年という月日をかけて成し遂げた。私がまだ十年、二十年前なら、これらの表現の意味を「知識」や「理解」としてでしか獲得できなかったと思う。この春経験した実存的苦悩の体験はまさに『直接的理解』をもたらしてくれるものとしても意味があった。