“私だけの家”──SNS全盛の時代に、なぜ「創作個人サイト」を持ち続けるのか?

かつて、同人界隈を中心に創作個人サイトが盛んだった時代があった。 HTML や CSS を学び、拍手ボタンを設置し、自分のバナーを作ってリンク集に載せる——あの頃、自分の創作を公の場で表現することには、ある種の“覚悟”がいったものだ。

時代が移り、SNS の浸透とともに個人サイト文化は後退した。いまや表現の場は無数に存在するようになった。アカウント登録ひとつで誰でも簡単に、自分の作品や想いを届けることができる。
完璧に設えられた場所で、文章や画像、動画を型に流し込むだけで、手軽に表現物が仕上がる。しかもお金もかからない。多くの人とつながる仕組みも、注目を集める工夫もすでに整えられており、誰もが簡単に表現の場を持つことができる便利なご時世になって久しい。

けれど、そんな時代にあってなお、個人サイトには無二の価値と魅力があるとして、あえて手間のかかる選択をし続けている少数派がいる。会社や企業や仕事ではなく、個人の創作の表現場としてそれをする人がいる。自分の力のみでサーバーを借り、ドメインを契約し、空間そのものを自ら設計し更新する。しかもわざわざお金をかけてそれをするのだ。

私は、そのひとりだ。

なぜこの便利極まる SNS 全盛時代に、こんな不便な手段を手放せないのか——? あまりに苦しかったこの数ヶ月の経験を通して、私ははっきりと気づかされた。

この小さなサイトは、単なる作品の置き場ではなく、
私の「心」そのものだったと。

誰に見せるでもなく、評価を求めるでもなく。
私はこの場所で、自分の呼吸を保っていた。

だから今あらためて、創作個人サイトが自分にとって何なのかを整理しておきたくなった。これは、愚直に個人サイトというものを持ち続ける私自身への手紙である。

自分の美意識で設計する「私の場所」

◆ 見た目への美意識

SNS や note のような発信ツールは、機能も洗練され、視認性も高く、申し分のない設計でできている。note の美しく無駄のない UI には感心するばかりだ。

だが、どれほど整っていて使いやすくとも、私にとっては “誰かに用意された部屋” に過ぎない。

私が欲しいのは、自分の美意識で組み立てられる空間。
フォントの選択ひとつ、色彩の違いひとつで、作品の印象は大きく変わるものだ。
例えば、日本語好きな私は多種多様な明朝体フォントの違いを見るのが好きだ。リュウミン、ヒラギノ明朝、筑紫明朝、うつくし明朝体、刻丸明朝かな、……様々ある。個人創作活動において特別お気に入りなのは『源暎こぶり明朝』『さらら明朝』など小説用のフォントたち。サイトの小説ページではこれらを使っている。自分の表現に合うのはどれかと悩み選択することから美の創造が始まっていると思う。また、ページの色味はどうだろう。白といっても、真っ白(#ffffff)と乳白色(#f3f3f3)では与える空気感がまったく違うし、黒だって、ブラック(#000000)ではなく(#24140e)のような、墨黒であってほしい時もある。

ページの構成やメニューの階層、並び順、文字の間隔、遷移のタイミング。これらにもこだわりがある。

そうした小さな設計一つひとつに、自分だけの世界観を反映できることが、創作個人サイトの本質 だと私は思う。つまり個人サイトとは、すでに作られている「作品を置く棚」ではなく、「その空間の設計自体が作品の一部」となるもの──そう言っても過言ではない。

◆ 方針への美意識

note はあくまで “共有された場” である以上、運営ポリシーや既存の仕様の中でしか表現できない制約がある。
一方個人サイトは、構造そのものから自分で決められる。自作の規約を設けてもいいし、特定の人にだけ読ませるよう設計することもできる。限定公開にしたい場合でも簡単に鍵をかけられる。note だと記事を一部公開にしたいなら有料設定の手段しかないのが実情だ。

多様な表現世界を持つ創作者として、自分で「空間のルール」を定められる自由があるというのは、想像以上に大きいのではないだろうか。

誰かの評価がなくても揺らがない、創作の「自律性」

SNS には、共感や交流のための仕組みが整っており大変に充実している。「いいね」や「コメント」が集まれば、それはクリエイターの励みになるだろう。けれどそれらが “前提” となった創作は、いつの間にか “反応を得るための表現” へと形を変えていく傾向がないだろうか。

私には、そうした空気がどうしても肌に合わないと感じるときがある。誰かとつながっていなければ自分が不安になるという感覚は私にはない。むしろ、自分の内側に静かに潜ってゆき、誰に見せなくても ただそこに在る という状態で作品と向き合う時間の方が、ずっと創造的だと感じてしまう。多くの人々が共感や共有を欲するのが当たり前の世の中で、こんな感覚は変わってるのかもしれないけれど、純度が高い創作とは他者からの評価に依存しないものだと感じるのだ。

そう、個人サイトとは誰の目も気にせずに、作品本来の温度で息をさせておける場所なのだ。それは “孤立” ではなく “独立”。創作の自律性だ。誰にも触れられない静けさの中にこそ、自分の輪郭が浮かび上がってくる生々しい感覚がある。

多様な創作を統合する場としてのサイト

これまで、小説・音楽・イラスト・映像・詩・エッセイ……さまざまなジャンルの表現に携わってきた。
それらはバラバラのように見えても、実はひとつの大きな内面世界を、異なる言語で翻訳しているだけだと思うことがある。
note や SNS では、それぞれの作品はジャンルごとに分断されてしまう。文章は文章、音楽は外部リンク、イラストは画像一覧……。マガジンで整理できてもそれは分類に過ぎない。

けれど、創作とはもっと 有機的なもの ではないだろうか。
例えば小説を書き、その登場人物を描いたイラストが動画になり、その動画からインスピレーションを得た楽曲が生まれ、さらにその曲が別の物語を導いていく。──こうした連鎖を「ひとつの空間に束ねておける」のが、自分の手で設計できる個人サイトの強みだと思う。

創作を “統合” する場。それが、私にとっての個人サイトの最大の価値かもしれない。

特に、複数の分野で表現力を発揮する “マルチポテンシャライト” 型の創作者にとっては、note のような線的構造では扱いきれない「創作群の全体像」を、自由に編集、配置できるサイトの柔軟性はとても大きい。
個人サイトなら、自分の中にある多様性に対して、自分だけの “地図” を与えることができてしまうのだ。

手間とお金、それでも続ける理由

さまざまに魅力はあれど、それでも個人サイトというものはやはり、大変な手間がかかる。
契約、設計、更新、保守、技術的なトラブルにはかなりの頻度で対応しなければならないし、サーバー代だって毎年払い続けなければ成立しない。それでも、私はやめられない。なぜなら、そこが  “私の居場所”  だからだ。

noteやSNSは「外の世界」であり、開かれた公共の場。それは「橋」であり、「店」であり、時に「野原」であり、人々が行き交う風通しのよい「街」なのだ。

一方個人サイトは、私が、私の手で、私のためだけに建てた山奥の小屋のようなものだ。とても不器用な手作りの小屋である。

風の強い日も、静かな夜も、そこでだけは火を灯していられる。
誰かに見せるためでなく、ただ呼吸をするために。

そして、最近はこうも思う。
この “面倒くささ” は、私にとっての試金石だったのだと。「それでもやりたいのか?」と問われるたびに、答えはいつも静かに「肯定」だった。

帰る場所を持つということ

とはいえ、手軽に発信できる note や SNS はこれからも存分に活用していくつもりだ。生きてるだけで内面から言葉や音やイメージが次々あふれてくる者にとって、今の時代これを使わない手はない。どちらも素晴らしいツールだし、そこで出会える人々や言葉はかけがえがないと言える。

けれど、どこまで行っても、それは “外の世界” に違いない。

私には、自分で鍵をかけ、火を焚き、
好きな光の中で過ごせる部屋が必要だ。

安心できる誰かにだけ扉を開き、作品たちと静かに過ごせる、そんな空間。
創作個人サイトとは、私にとって「生きているということ」の小さな証であり、日々のなかで、自分を見失わないための “帰る場所” なのだ。


私の不器用な小屋

ホーム画面のデザインは気ままに変わる。心を映し出す場であるため、方針も気ままに変わる。ただ、こうして個人的事情や気まぐれなアイデアを反映させられる自由は、サイト運営者の特権である。(Googleの登録がまだ本来の名前に戻っていない。)

この時代、note や SNS を活用しながらも「個人サイト」にこだわり続ける “変わり者” たちへ——。これからも自サイトに愛を注いでゆきましょう。