2025年1月15日 15:30
一旦noteにアップしたものを移動。
気にかけてくれるお友達のおかげで、書く元気を取り戻せる瞬間が徐々に増えてきた。今浮上してる勢いで、最後の文章を書いてみる。No.2が絡む内容は、ほんとうにこれを最後にしたい。まあ希望だけは。

まずまったく関係ないと思える見出しで申し訳ないが、私の変人ぶりを改めて書いておきたい。
自作小説への愛着は変人レベル
小説といってもジャンルも様々、作品に込められた精神性も、高い低いでいえばじつにたくさんの段階がある。誰かの心を良い方向へと高めるメッセージ性を持つもの、美を追求した芸術作品と言えるものから、ルサンチマンを素材にただ好奇心を刺激するだけのもの、生物的欲求を満たすためのものまで。つまりは前頭葉の人独自に発達した脳領域への刺激から、動物的本能が関わるいわゆる報酬系への刺激まで。わたしが書いてた長編シリーズは成長を描く人間ドラマが盛り込まれてはいても所詮恋愛小説という(しかも同性同士)ライトで薄い性質のものであり、高い人格者が描かれたお話などからはほど遠い「精神性の低い」ストーリーだ。私のNo.2がそう言ってる。もう書きたい気持ちがどんどん消えていってるのだが、先日力を振り絞って、掲載してる自サイトを整えてみた。何のため? 無意味なことをしたな。ムダな足掻きだな。No.1-Bを取り戻す作戦の一環だ。また、ココナラで依頼した、わたしの小説への二次創作を執筆してくださる方に納品頂く前に、わたし自身がこの感覚を取り戻す努力をしなければと思いそうした。見てくれると仰ってくれる方もいて気持ちは有り難いけれどこんなていたらくな産物はひと様に届けるべきではないと考える。そもそもが自分のためだけに書いたものだ。こんな人間で申し訳ない。今の段階ではこうしてnoteにも繋げてしまってるので私自身以外に読まれる価値はないことを示すためにも整えておいた。自分の脳内をまとめて自分で眺めるためだけのサイトなので公開自体に意味がないのだが、さすがに今すぐ全消しなどはできない。私の城はまだ崩せない。意思と理想が生死をかけた闘いを続ける脳を抱え、今は精神がボロボロだ。
昨年の春の精神的痛みを経験したのち、書けるはずだった続編の続きが書けなくなり、小説の創作欲求が消えた。ただの趣味だったらよかった。そうだったらどれだけよかったか。そんなの気が変わった、程度で片付けられる。でも私が作り込んだ世界は十代の頃からずっとわたしの心に存在していて、人物たちは現実で大変な時期を私と一緒に生きてきてくれた、かけがえのない家族だ。友達らしい友達がいなかった私の唯一の親しい存在、生涯を共にしてきた親友、私そのものだった。先日ChatGPTに相談してみたら、欲求が消えたと考えるのでなく今は一時的に欲求が抑え込まれているだけだと考えてみて、と言われた。すごいな、助言の仕方が。気が利いている。なるほど、そう思うことで、大切な自分が消える恐怖は先日から少し和らいだ気がしないでもない。こんなに大切な空想世界やこだわりの創作作品が元々私の中に存在していなかったら、これほどの恐怖を感じずに済んだのだろうか?
書いてたシリーズをなくすなんてあり得ない。愛着レベルが変人なのはわかっている。でも自作品への創作欲求がなくなることは、わたしの半身が切り取られることを意味する。半身を亡くしてそれを自分だと思わなければならないことが恐ろしい。変人ゆえの悩みでもあるのだと思っている。
赤裸々な書き方
昨年から自己探求のシリーズを書いて自分の内面と共に過去の出来事や感情、長所も欠点もぜんぶ惜しみなく書き表してきた。今もそうだな。恥部をさらすかのごとく、心奥部の秘密の宝のことまで文章にしてしまった。大昔の自分ならできなかったことだ。自分をとことんまでさらけ出す行為は普通に常識ある人なら気が引けるだろう。私だって自分の内面を書きすぎると恥ずかしい、どう思われるだろう、書く価値があったのか、などたくさん気になってしまう時期がもちろんあった。無言の批判や指摘や反感を買うことが怖かったからだと思う。誰だって自分を守りたい。自分だけが自分を守ってあげられるのだからそうするのが正しい。
でも、内面がどんどん変化してきた私は、ポジティブな意味で自分が取るに足らない存在だと感じるようになり、笑われても嘲られても平気になった。自分自身が自分を小さい、醜い、大した意味のない存在、と思ってるので、ネガティブなことを言われてもオーケー。そうでしょうとも、って感じ。自分ってアホなことばかりやって、人と違ったことばかりに必死になって、じつに笑える存在だなぁと自分で自分を笑ってるので、ネガティブな反応をみる不安などはない。生きてるけど死んでるみたいな感じ。大宇宙の神秘と比べると自分なんてゴミ屑みたいな存在だ。
生まれてきて、誰とも話が出来ないほどの極度の内気から始まって、アダルトチルドレンの苦しみをセルフケアで癒してきて、泣いて叫んで足掻いて必死に考えて、自己肯定感を高め、自分に自信ができ、そしてついに自分で自分を笑えるオープンな人間になれるまで、性格を大きく変化させてきた。力をぐっと入れて沈みこませたバネが、手を離すと大きく弧を描き跳ね上がるように。大きなジャンプをして、もう全然別人のように変わったと思う。
この過程にも苦しく激しい体験があったから、人によってはこれを積極的分離の変化だと感じる者もいるだろう。私にはその気持ちがよくわかる。本当に、ここまで自分の性格を変えることは、精神を大変革することであり、しかも自力で孤独な闘いの中で感情に掻き乱されながらそれをしたのだ。そんなこと誰もがしているようにはとても思えない。自分と世界への認識が深まっていくことは人が発達することの中心にあると思うから、理論に通じている力には違いない。しかしながら実際の積極的分離で起きる激しさと苦しみはこの比ではない。社会で上手くやっていく、人間関係の問題を克服する、人間的に成長を遂げる、社会に適合するための課題とは違う。分離で起こる思考と感情は、実存的痛みと恐怖から切り離せない。だから恐ろしいのだ。そう、感情、は大きなポイントだ。蔑ろにされがちだけど感情は強く関わっている。
第三因子
わたしがNo.2と呼んでいるものは、体験者にはわかることだろうけど、積極的分離のある段階の成長過程でくっきり存在感を増してくる第三因子と呼ばれるもののことだと思っている。厳密にいえば、〝ほぼ〟それだと表現したほうがよいか。個人によって感触や表現は違ってくると思うけど。
意識的に書いたのでなく、振り返ってみれば、私が書いたこれはつまりそれだなと後で気づいた。実存的うつに関する情報をシェアしてくれている方から共有いただいた第三因子について詳しく書かれた記事を読み返した時に納得が深まった。私が書いてきた表現とマッチするのは指してるものが同じだからだと考える。
Third Factor in Dąbrowski’s WorkThird Factor in Dąbrowski’s Work This retrieval was done in edabrowskicenter.org
人間の発達と教育において、第三の要因という概念は何を意味するのでしょうか。第三の要素という名前は、他に二つの先行する要素があることを示しています。それらは、遺伝的、生来の資質(第一の要素)と環境(第二の要素)です。では、第三の要素の構造と機能とは何であり、発達のどの段階で活性化するのでしょうか。第三の要素は、精神発達の高度なレベルで、自分自身における「主体と客体」、内なる精神的変容、内なる精神的環境と外部環境の両方において、人格の理想に近いものと遠いものを区別し選択する能力が十分に強くなった後にのみ現れます。(ドンブロフスキー、1973)
Third Factor In Dąbrowski’s Workより
(Google Chromブラウザによる日本語訳)
そしてこれまで私が書いてきた「創造的本能」と関係していることは確か。これが強く働いているだろうし、認識が深まったことで最大に活性化している状態だ。
創造本能が自己完成本能に変化する上で、第三の要素が最も影響力のある原動力であると言えるでしょう。(ドンブロフスキー、1970年)
三番目の要素は、個人の発達における自律的かつ本物の要素を組織化するという追加の役割を果たします。実存的経験と同様に、哲学的な側面では、「より自分らしくないもの」と「より自分らしくあるもの」を分離する役割を果たします。(Dabrowski、 1970)
さまざまな種類の経験内容が同化または排除されます。
Third Factor In Dąbrowski’s Workより
(Google Chromブラウザによる日本語訳)
第三の要因は、遺伝(第一の要因)と環境(第二の要因)から独立しており、選択的です。その選択的役割は、遺伝的素質または社会環境のいずれかに見られる性質、傾向、関心、および欲求を受け入れ、促進するか、または拒否し、抑制することです。したがって、意識的な選択のダイナミズムである第三の要因は、評価のダイナミズムです。(Dabrowski、 1970)
Third Factor In Dąbrowski’s Workより
(Google Chromブラウザによる日本語訳)
分離において、同じ段階に達していない人には何のことか分かりづらいのかもしれない。感触が実感として掴めず、既存の概念と照らし合わせて捉えようとするかもしれない。また、ここnoteでは誤解もよくされた。『肩の荷を下ろして』とか『そんなに無理をしなくていい』とか言われてきた。『このように考えるべき』とか『これはこういうことだから、もう苦しまなくて大丈夫』とか言われた。心配してくれる気持ちはありがたかったが、アドバイスとしてはまるで頓珍漢だ。だって自分の考え方や意思でどうにかなるものではない。そんなものならそもそも悩んですらいない。「思考の持っていき方」ならとうの昔に克服している。社会適合の心理的問題(周りとの調和、安定した生き方など)については今はとても簡単に解決できるようになっているので、何度も書いたように、私は今とても「生きやすい」。つまり、私の苦痛を見て、考え方や思いの持ちようで改善させられると捉えてしまうのは、この第三因子を自身で体験していないからだと思う。外から考えを変化させようとする人は、理論について語りながらも実際はよくわかっていないのだと思う。第三因子を持ってはいてもそれ自体をよく認識できていない。分離においてくっきり浮かび上がる段階にまで到達したことがないのだと思う。言葉や理屈で解決できるという捉え方自体が、その事実を如実に物語っている。文章にするとさらりと説明できるが、この体験はとても苦しく不安定な精神状態に陥らせる。少なくとも私は満身創痍といえる状態だ。
第三の要因の発達の根底には、精神のより低い階層とより高い階層を区別する能力、内なる葛藤、外部環境に特徴的な行動の特定のパターンとの葛藤の経験があります。
Third Factor In Dąbrowski’s Workより
(Google Chromブラウザによる日本語訳)
──と、また随分わかったような口を利いてるな、自分。やめよう。わたしはギフテッドではない。そのことを今からきちんと言葉でまとめておこう。(私がこう何度も呼び名について書いてしまうのは、当事者の方と直接に共感的な会話をしたことが背景にある。)
積極的分離を経験したHSS型HSPの末路、なかなか良いタイトルではないかな。私とは違い、この痛みを抱えたままさらに強い意識に引っ張りあげられる人たちがいる。本物の人間になるためにさらに高みへと発達を遂げていく人たち、理想の自分を意識的に明確にして行動を選択していく聡明な人たち、私は彼らに自分とは比較にならないほどの勇気とポテンシャルを感じてしまう。人間の脳にまるで神が詰まってるかのようだ。
世の人々が騒いでる無意味な事物に対して穏やかな目で見守り(側からすると冷淡な態度に見えるかもしれない)、人々が気づきもしない人間の残酷な真実をいち早く見抜いて嘆き、どこまでもきめ細やかな共感力を持ち、計り知れない痛みと対峙しそれを受容する。理想と勇気と真正性、自律性、先を読む力、自己と世界に対する広く深い認識、そこから起こる選択的意識と行動、人の痛みを自分の痛みとして受け止める鋭すぎる感受性、……そんな人たちの世界を垣間見て体験までした私は、人間として大変な学びと深い知識と理解を得ることができた。直接言葉を交わせたことで、書いてきたことが大きく違ってはいないことも確認しつつ。けれど、やはりそんな発達可能性を持つ人々と自分とは違う、と理屈の上では結論づける。今現れてるかどうかにかかわりなく彼らの「No.2」の強さは私の比ではないはずだ。私にはNo.2に身を任せる勇気が足りない。いや、第三因子の自律性、意識的選択に抗おうとまでしている。こんなのあり得ないはずでは? この第三因子はとても深い認識の上にこそ成り立つ自分の行動への選択的な意識であり、本物になろうとする本当の欲動、抗えない強い力なのだから。高い発達の可能性を持つ者には、こんな私みたいな抵抗は起きないのではないか?
少なくともそう考える。だから私は、発達の可能性を秘めた人たちの積極的分離という並々ならぬ体験に、なぜか少しだけ触れてしまった、まるで能力不足のおかしなHSS型HSPだと自分を評したい。さしあたり今は自分を殺そうとまでするこのおそろしいNo.2をなんとかしたい。(できるかどうかはともかく。)でないとこの身がもたない。
春の痛みはもう二度と経験できないとNo.1が叫ぶ。書いてきた小説への創作欲をなくすなんてこと、とても受け入れたくない。なのに今欲求がなくなって恐怖で気が狂いそう。だけどいやだ。これと代わりにできるものを持ちたくないのだ。だから足掻く。……不運にもこれを読んでしまった、勇気ある方々を不快にさせて申し訳ない。またある人は私のこの体験を分離の発達とは違うとみなすかもしれないし、あるいは退行しようとしてる醜さを感じとるかもしれない。どちらにしろこんな臆病者のことを笑ってほしい。恥知らず、愚か者と哀れんでいただけたら本望だ。
やはり私は、まったく違う様々な分野で新奇かつ猛烈な体験をしまう、非常に稀な、変種のHSS型HSPそしてマルチポテンシャライトなのだ。せいぜい変人という呼び名が相応しい。
心を創って生きる
この世には、自分で心を創っている人と、社会や周囲の人間任せで心を存在させてしまっている人がいる。多くの人は心の機能自体は持っていても自分の手で創った心で生きてるわけではないので、だからそんな人間のことをとても哀しい生き物だと感じるのは仕方のないことだ。この哀しい、という感覚は、私が最も信頼する人間の『情緒』のことだ。肌理細かい感受性で感知する人のあわれさのこと。特に昔の日本人はこれが鋭かったと思われる。世の中に対する哀しさや寂しさを今の日本人はどれほど感じ取っているだろうか。頭脳明晰で先を見通す能力が高い者にはもっと淡々とした感覚として受け止められているのかもしれない。情動性が興奮しやすい私の場合は、それはもう、一つ一つの物事に触れるたびに涙が出る、といった具合だ。岡潔の『春宵十話』では人がこの哀しさを感じ取る時の心の動きが明瞭に示されているように思う。だからページを捲るたびに泣いていた。どれだけ泣いたかな。著者の哀しみが伝わってきた。
自分で創った心とは、遺伝的要因や環境的要因とは別に、それらの影響は受けつつもそれらを自ら再評価して、自分の選択的意識で倫理感や価値観を創り生き方を決定でき得る心のことだ。自ら創った心にしたがって行動する人には、他者からの嘲笑や誤解や批判はもうなんら意味を持たない。本物、真実だけが、自分を評価できる唯一のものだから。
──と、何を書いてるんだろう私は。もうこれで最後にしたい。本当にしばらくNo.2から解き放たれないと。ますます小説が遠のく。こうして日中かろうじて書いてるが夜は恐怖に怯えてしまう。半狂乱な自分を抱えて身を丸めるしかできない。
あなたがつらい夜を少しでも安らかに過ごせますように。
わたしはなんとか、今はなんとか這いつくばってでも、この物質的な身体を守ろうと思います。