身近な人たちと一緒にいればいるほど孤独が増す。それほどに自己の内面を分析し過ぎてしまった。だけどしない方がよかったわけじゃない。これが自分なのであって、自分だけはきちんと自分を知ってあげたかったのであって、本当の自分は、暗い淵の底で見つけ出されるのを待っていたのであって……。だから、自分らしさを突き詰めた結果、これまでもかなり寂しい交友関係ではあったけど、更に交友関係に条件ができてしまうという、更に状況を厳しくすることになってしまったのである。
思えば、一人娘のように愛していたビッケが亡くなり、創作が好きで表現者でもあった繊細な心を持つ親友との連絡も途絶え、複数の大切な繋がりを失くしてから私は、さらにこの孤独感が、抜き差しならないものになっていたのだ。数年前に亡くなった、同じ創作仲間の親友(になれるはずだった親しい友人)のこともいまだに脳裏を掠める。
優しい家族、優しい友達、優しい妹、みんなみんな大切な存在であるには変わりない。感謝がないわけではない。それでも私は、もっと深いところにいる本当の私を見たせいで、それらの関わりが持つ表面性を知ってしまったのだ。私は私を曝け出せないままであり、誰も本当の私に対して質問一つしてくれなければ、聞き出そうともしてくれない。……本当に虚しい。寂しい。

幸い今日は快晴で、心の闇を光で見えなくしてくれる。青空の下、ビールなど飲みながら……。私が日常から消えたことで何の心配をしてくれるわけでもない、何の関心を持ってくれるわけでもない身近な人を思いながらため息を吐いている。
積極的分離理論でいうところのフェーズが切り替わる地点に来ているのかもしれないな。苦しいから元に戻れば、それはただのよくある道。表面は楽しいけれど、結局誰かに寄り添って寂しさを紛らわせるだけの今までと何も変わらない道。皆と同じ道。私の本心を無視して歩む道だ。多くの人にとってそれは正しい道だろうけど、私にとって果たしてそうなのか?
奇しくも家を飛び出る前まで『春にして君を離れ』を再読していた。あれに出てくるロドニーにとってのレスリー、そんな存在を私は求めているのだろう。ロドニーはこの苦しみに耐えながら生きている人なのだろうか。そして、私は夫や友人に、どこかジョーン・スカダモアのように意識の新たな扉を開く地点へと来て欲しいのかもしれないな。あの小説の中では、二人の深層の意識が向き合うことにはならなかったけど、結局それが人生なのだろうか? アガサはずっと昔にその答えを作品で書き表していたのか?
いずれにしても、今はどうすればいいのかわからない。誰かに何かを求めているのか、それとも更なる強さへと飛躍しようとしているのか。