何が人を「上」にさせるのか?

何が人を『成長』させるのか? と言いたいところをあえて『上』にしてみた。高くなる、上にいる、優れている、秀でている、……自分や他者を心の中で評価する際この考え方に囚われている人が多い。顕在意識、潜在意識に関わりなく。上下意識、優劣感情、序列意識。だからあえて「上」と言ってみる。

実るほど こうべをたれる 稲穂かな

作者不詳  

自分を過大評価してる人、あるいは自分を過小評価してる人へ──。

成長とは内面の成長のこと。内面の成長とは、人としての「器が大きくなる」ことではないだろうか。他者と比較してどれほど多くを持って生まれていようと、人より優れた能力を発揮できようと、心の器が小さいならば悲しいだろう。「器が大きい」=「上」とした場合、これに関わりが深いと思われる要素を以下にまとめてみよう。

1・生来の資質(内的資源)

世間的にいって知能指数は一番測られやすく理解されやすい知的能力とされている。加えて何らかの身体的、知的な才能、特質。人より抜きん出ている生来の資質。なるほどこれらは成長の程度を決定づけていく巨大な要素に違いない。高い知能、高い知性、豊かな感性、豊かな精神性、学問やスポーツや芸術的才能、タレント。特筆されるべき「生来の」能力。だがこれを他者より誇れる要素であるとして振り翳し生きてる残念な人も世に多くいる。彼らは器の大きさについてまだまだ学ぶべきことがあるのではないか。

2・年齢と経験(後天的要素)

例えば十年人より多く生き何かを体験しているならば、それだけ乗り越えた問題の数も多いという法則は往々にして当てはまる。人生ステージで遭遇する課題もステージが上がるほど難易度が高くなる。子育てしてない人よりしてる人の方が現場の大変さを実感として知ってるし理屈で表しきれない細かで現実的な実践力を培ってきている。年齢と経験は、年長者が賢者とは限らない現実が露呈した現代、価値観が多様化した社会で軽んじられることもしばしばだが、人が「上」へと成長するために決して侮れないものである。これがわからない人はまだ青いと言えるかもしれない。けれども誰かがこれをわかるときというのは、自身が歳をとり経験を重ねたときのみだから、言葉で表したところで一蹴されるのがオチだ。

3・与えられた課題の大きさ
(環境的条件)

あなたが人生で課されたタスク(生きていくために取り組むべき眼前に置かれた課題)のこと。意思決定する前から存在してる生きる条件のこと。世の中五体満足な人ばかりではない。先天的障害を持たない人ばかりではない。子は親を選べない。健康問題、家庭環境、養育者や教育者との関係、経済的な問題、居住区の治安や差別問題諸々。これらは千差万別。不公平だよね。みんな同じじゃない。これらが恵まれてなければ、あなたは人生で過酷な課題を突きつけられた人と言える。未成年時代に課された親や養育者からの身体的精神的な圧力や攻撃という負荷は、理解されづらくもあり非常に長引く重苦しい生きるための条件ではないか。
あなたは難易度が高い人生の課題を課されてきた人だろうか。ならばそれに対処したり克服してきた力はあなたを人一倍人間的に成長させてきた。恵まれた環境で生きてきた人よりもずっと多くの問題解決能力を獲得してきた。解決とは、必ずしも外面に現れてるものとは限らない。課題に向き合い苦しみを静かに心に収め、ただ生き延びてきただけでも発揮したその能力は凄まじい。

AさんとBさんが同じ場所で同じことをして笑っている。けれどAさんは元々課題が少なかった人。だから笑えている。Bさんは大変な課題を突きつけられ克服してきた人。乗り越えてから笑っているのだ。外側は同じように見えるがBさんは一周回ってここにいる。これを見抜ける人は世間に少ない。だからあなたは多くの場合他者より低い(=弱い)と見做されてきたし自分でもそう評価してきた。とんでもないことだ。Bさんはもっと評価されて然るべきだ。
課題を多くこなしてきた人ほど内面の器は広がっている。誰にも見抜いてもらえずとも、それはその人の情緒となり言外にあふれ出ている。

オリンピックの金メダル獲得、世界最高峰の学位や名誉を手にする、彼らが向き合った課題の大きさと能力と努力は万人がそれを偉業とし絶賛する。あなたが向き合ってきた過酷な環境という課題、これを乗り越えた力と努力がそれらよりも劣っているなどと胸を張って言い切れる人はどこにいるか。

成長すると、勝つが全てではないことがわかる。数値による評価が付く勝ち負け世界よりも大きな精神の枠が見えてくる。勝つどころか絶望してるというなら、あなたは人より大きな課題を与えられた、注目され愛されて然るべき人だ。過酷な課題を何とか受け止め今生きているというのなら、存在してるだけであなたは偉業を成している。

優劣意識で自己を高めてみたい人は、生まれながらに難病を抱え闘い続けてきた人やわが子に先立たれたにもかかわらず絶望を乗り越え同じ境遇にある人の力になって生きてる人や、そんな困難や逆境を乗り越えて強くなってきた「実存危機」の体験者たちと、心の器の広がりを比較するとよいのでは。(器=自分と相容れない物事を受容し得る知性と精神パワー)彼らより自分の器が大きいと言えるなら初めて自分を誇れる。成長した(=上にいる)とはそういうことだから。

4・意欲と力への意思
(欲動と情動の強さ)

これは心の奥に潜むゆえほとんど注目されることがない。悲しいことだがこれが実情だ。人が持つ能力のうち逆境を乗り越えるパワーをもたらすもの。あなたに今これが大きければ、あなたは通常より多く成長しているし成長してきたに違いないのだ。本来受け入れ難い物事を知らずにぐんぐん受け入れて内面の器を目一杯広げてきた。これは誰にも見抜けない。あなた自身も見抜いてない可能性がある。

これは本能に近いから。実のところ意欲と意思が真の成長に欠かせない重要な要素となる。どんなに生まれつきの資質が高かろうとこれがなければ元も子もない。精神の大きな飛躍は起き得ない。人が自分を動かすとき欲動に突き動かされる意思ほど強いものはない。生来の資質にこの欲動が合わさるとき人は尋常でない勇気を創り出す。
この勇気が自律性となり主体性となり不動の人間性を内面に創造していく。深いところから湧き出てくるものだから、外側にいる誰かに感じ取ってもらえるものでもない。でも自分にそれがあるなら自分で自分を評価しよう。不屈の精神を創るのは「意欲」と「力への意思」なのだから。成長や上を意識するなら、これの存在を決して忘れないでほしい。

知性と感情の成長

知性の欠如した感情的表現は「愚かしい」と誰もが認めてきた。一方で、感情的判断の欠如した知性はどこまでも高められていきそうだ。何かを強く憎むことができない人が何かを強く愛せるはずもないのに「愛」はこの憎しみの感情抜きで涼しい顔をして語られ続けていく。感情を伴わない知性が蔓延った。感情の成長を伴ってこそ真の知性なのに。

感情の成長とは……?

これは「愛」と置き換え可能だろうか。自分が拒絶してきた何かを受容できるようになること。あなたのその優れた頭脳が、愚かだ、無価値だ、と見下してきた何かを心から愛するようになれること。頭でわかるのでなく叫び出したいほどに自分がそう変化してしまうということ。これはなかなかに難しいことだ。一筋縄でいかず多大な労力を己に強いる。だから人は、昨日と同じ場所を今日の自分の居場所として固めることに専心する。自分を同じパターンと型に嵌め込み無意識でこの労力を避け心を落ち着かせて生きていく。だが「力への意思」とはこの労力に意識的に向き合うことを意味する。

変化とは 成長とは

ニーチェが言ったように、成長する人は愛する対象を変えていく。
若いうちは新奇なものや謎めいて面白いものを愛する。成熟したら人生の意味深い側面や奥深い真理を愛するようになる。そして円熟期には、一周回ってとてもシンプルな法則に深みを見い出しそれを愛することができてしまう。今まで取るに足らぬとしたものを、──だ。「頭」でシンプルさの必要を理解することでなく、叫びたいほど命を賭けてこれを愛するようになれる。(……信じられないことだが、人間の精神というものは成長の極みを見るとき善を殺す悪すらも受容することができる。己の命を投げ打って最悪を受容する。誰もがそこまでになる必要はなく出来もしないけれど器を広げるということは他でもないこの原理のことを指す。)

愛とは、自分と正反対のものをただ喜ぶこと。
喜ぶ、は感情だ。優れた理性がこの感情を伴ったときが「成長」なのだから。

例えばこれを読んでるあなたがもし今電車に乗ってるなら、あなたの横の席の人が眠って寄りかかってきてるかもしれない。見ず知らずの人が(臭いのキツい人が、嫌な音を立てる人が、)肩に頭をもたせ掛けてきて、生理的に受け付けられないあなたはそれが不快で仕方ない。突き返すこともできるしそのまま肩を貸し休ませてあげることもできる。その人が自分の嫌いなタイプの人であればあるほど相手にマナーを要求したくなるはず。しかしその人はどこかであなたを助けてくれる人かもしれない。すでにあなたを助けてくれた誰かかもしれない。──え? そんな発想が何の役に立つ? この不快さを相手に伝えたとて私に落ち度など一切ないはず、とあなたは言う。然れどこれが「想像力」というもの。平和でポジティブな可能性を探る能力が、想像力。創造性。──死を突きつけられることから、電車で肩を貸す程度のことまで、受容の対象物と呼べるものには随分な開きがある。赦す。与える。受け入れる。自分はどこまで器を広げられるだろうか。

「上」についてのシンプルな法則

実るほど こうべをたれる 稲穂かな

シンプル過ぎて人気がないのか。自己主張や自己表現が求められて久しい競争社会ゆえに見過ごされているのか。法則を感じ取る感受性の問題か。理解の深度の違いか。自然界が教えてくれるなんと簡潔明瞭な理屈だろう。

真に成長した人は、今日も目立たぬ所でひっそり誰かの心を救っているに違いない。格付けや段階意識とはかけ離れたところにいてくれる人だ。

──「清濁併せ呑む」という言葉がある。
度量が大きく、懐が深く、清らさも濁りも、善も悪もあるがままに分け隔てなく受け入れる大きな心を表す言葉だ。どんと構えた、来るもの拒まずの精神。使い古された慣用句だなどと一蹴するなかれ。……人は言葉の意味を知っただけで理解した気になることがあるが、言うは易く行うは難しである。あらゆることを敏感に感受する人間がこれを体得するには長い年月がかかりはしないだろうか? 創造性抜きにそれができるだろうか?

君にはまだ早い

人格レベルとは

積極的分離理論と言えば難解な人格形成理論となってしまうが、人が成長する根本の原理や理屈を鑑みれば方向性はまるで同じではないだろうか。痛みなくして得るものなし──相容れないものとの闘いなのだ、人格を成長させるということは。

優劣感情や上下意識が存在しない地平を発見してからが、本当の意味での「成長」の始まりなのだから。

地平を見つけるまでも遠い道のりにゃ。


※本日は右端の老賢人小人が書きました。時々猫小人が茶々を入れ失礼しました。