自己理解こそまず大事なのでは?という話。

書きたいトピックの合間にふと思いつきで書く記事。今回もそれです。つぶやき(ぼやき?)なので適当に見てくだされば。

幸福になる方法とか生きづらさの解消方法などがSNS、ブログ、動画などで日々配信されている。多くが曖昧な抽象表現での説明に留まっていたり、一面的に語られていたり、コメントなどの反応もほとんどそれだったりする。
その中身は玉石混交。中には「石」を信じられない対価を払って得る人、当然の顔をして「石」を渡し多額の報酬を受け取る人たちもいる。すごいな、と思う。すぐに「方法」や「改善策」に飛びつく人が多いみたいだ。

例えば『幸福』……この言葉を深く追究すると語るときの切り口の多さに気づく。何を前提とするのか、どう定義するのかを示しておかないとそもそも意味がないんじゃないか。言葉の背景や構造をまずは解説しておかないと正確なことは言えないのでは、と思う。

……例えばこういうこと。

AさんとBさんが共に、10という目的地を目指すため、今0という地点に立っている。はい、これを世間では『二人同時にゼロからのスタート』と見ますね。ゼロ地点に並んで立っているから全く同じ条件だと捉えるわけです。本人たちも大抵そう認識しています。

でも、ちょっと待って。

例えば……。
Aさんは、生まれた時からこの0地点に立っている。けれどBさんは、生まれた時にはマイナス10の地点にいて、Aさんと同じ0に立つために長年かけて進んできた結果いまAさんと同じ0地点に立てている──もし、こういう前提が裏に潜んでいるとしたら……?
それでもこの二人を同じ地点にいる同条件の人だと言うのですか? と。

Bさんに、既に0〜10まで進んできたという「経験」がもしあるなら、その道程で得たものは二人が今から目指す10の行程と同じ分量ですよ? なのに現時点で同じ0に立っているから『同じ』ゼロにいる人とできますか? 今二人が0に立っているという事実だけを見て、0を1にする方法を両者が必要としている前提で話を進めていく。それでは駄目なのでは? Bさんにとっては0を1にする方法は経験からわかっている。10を目指しているという事実が現実だとしても。10に向かう本当の動機や目的が、さて両者は同じなのだろうか?

……けれど世間でこのような違いが語られることはほとんどない。悩みを抱えた人皆一様に、概ね同じ地点に同じ条件でいるとした上で、さあ、今からあなたの抱えているストレス解消法を教えますよ、さあ、誰もが幸せになれる方法を教えますよ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、ってな具合だ。

例えば……。生まれつき平均より心拍数の低い人間というのがいる。その人は元々経験する物事によほどの強い刺激がない限り動じない。いつも落ち着きはらってニコニコして穏やかに微笑んでいる。とっても幸福そう。あの人はいつも温厚で、何事にも落ち着いて行動する人だ、と誰かが評している。
ところが一方の人は、生まれつき心拍数が高く、つまり微細な刺激にもひどく心が動揺してしまう。けれども同時に、その刺激に負けないほどの強烈な好奇心も持ち合わせていた。その好奇心をバネにして他の人がしないような経験をたくさんしてきた。まるで動揺を活力に換えるかのように。いわば心の鍛錬をたくさん積み重ねてきた。この人は、動揺はするけれど、動揺を抑制する方の力も同時に発達させてきたわけだ。
外からは見えない部分で、本人も気づかないレベルで、知らずのうちに発達を遂げてきた。だから今や落ち着き払った空気を醸し出し、よほどのことでない限り物事に動じない。この人を見ている誰かが言う。「あの人は、いつもとっても自然体で、何事にも動じない強さを持っているねぇ」

二人とも世間一般の大多数の人より肝が座り、小さな物事に動じず、器の大きな人に見えている。でも内面の違いや経験値の面ではどうだろう。後者はいわば『一周回って』前者と同じ場所に居るのだ。でもこれを見て『二人は全然違っているね』という人などほぼいない。二人は同じ『物事に動じない人』と評されている。

また加えて、目的や価値観の話を。
前者及びAさんにとっての幸福は『10地点に達すること』。だけど後者及びBさんの本当の幸福は『今ここにいること』なのだとしたら? つまり行動はAさんと全く同じでも、目的や価値観が違っていたら?

後者が本当に今から10へ進むことを望んでいる場合、それは更なる幸福の追求(欲張り? あるいは人一倍の努力心や向上心?)を意味するのか、もしくは全く別の目的を持つのか(単なる10地点の観察のため? 未知を体験したいというただの遊び心?)……それは本人に訊いてみないとわからない。いや、本人が本人の中にある「本心」に訊いてみないとわからない。

幸福な人とは? 幸福とは何か? 幸福を得るための方法とは? 努力は本当に必要なのか? それとも努力は報われないから無駄なのか? 頑張る人は幸福な人なのか? それとも頑張る人は愚か者なのか?

これらの問題において方法論、精神論をいきなり語り始めても、AさんとBさんにとってその言葉が意味するものは全然違ってしまう。

少し前に過去の哲学者が明らかにした三つの幸福について書いた。

1・セロトニンの幸福(心身の健康)
2・オキシトシンの幸福(絆と触れ合い)
3・ドーパミンの幸福(獲得や達成)

『幸福』──。それはある人にとっては、資本主義社会における金銭的成功や地位や業績を獲得することかもしれない。つまり3のドーパミンの幸福。しかし別のある人にとっての幸福とは、社会的成功や世間的価値観による生活水準などではなく、単に恋人や家族との深い絆だったりする。この場合、求めているのは2の幸福だ。はたまた別のある人──幼い頃から病弱で友達と遊ぶ楽しみを知らない人、子供の頃から慢性疲労症候群などの地味でいながら過酷な不健康と共に生きてきた人──にとって、1の幸福である『普通の』体力を持つことこそが世界一輝いて見える幸福であるかもしれない。

……このように、その人によって認識している『幸福』の「定義」が違うことがあり、また幸福を目指す時の「スタート地点」が違っていることもあり、またまた更に「目的」が違っていることもあるのですよ。

じゅっぱひとからげに、0から10の地点を目指して幸福を獲得するための方法、などと言われても『?』なわけです。みんな条件が違いますよ? ってなるのです。

つまり、外面は同じに見えても、内面に各自大きな違いがあることに注意を向けなければならない。以前示した図解↓

自己分析をする際の切り口。大まかな基本構造

こんなふうに、人はそれぞれ全く違う、先天的、後天的要素を持っている。だから「誰もがすぐに幸福になれる方法」「人にとって幸福とは何か?」「幸福を得ることこそ生きる意味」などと言ってもその定義も、スタート地点も、目的も、違う。これらが違うと解釈も違うし、情報から得られる益にも天と地ほどの開きが起こり得る。

また、思いつきでもう一つ別の例をあげると、かなり以前からある『コミュ障』という言葉。これなんかも、一つの性格タイプのように語られることがあるけれど、実際は原因が様々。その原因は、社会不安障害なのか、シャイな性格のためなのか、オンライン交流に馴染みすぎて生身の人間相手の交流が苦手になってしまった現代病なのか、短気や自己中など協調性のなさによるのか、ADHDを始め何らかの発達障害によるのか、ACやPTSDなど環境や経験による心の問題なのか、……この一つのワードをとってもこれだけ背景的要因は多岐に亘っている。

誰にでも通用するかのようなフレーズが世間に実に多く飛び交っている。その人の内面に「何が」「どれほど」あるか? ……この内面には、図に示すとおり「行動」「生い立ち」「教育」が含まれている。つまり外側からは掴み取れない『経験』だ。また本能の上に位置する「量や質の度合い」がある。これは絶大な違いをもたらす。その上の「欲求」、これの違いも実は滅茶苦茶に大事だ。同じ行為における目的も動機も違ってくるから。
……はてさて、そこを理解した上で語らない限り、何にも意味を為さないのでは?

幸福の追求は確かに図で示すところの、誰しもに通ずる『本能』に位置する人類共通の項目だ。だから『誰にも通用する話題』と安直に考えてしまいがち。でもその上に「欲求」の違いがあり、ここでまず大きな分岐点ができてしまう。さらに上のランクにある切り口も無視できないわけ。

私の身近には、自己理解より前に、幸福になるためのメソッドを実行してしまったことで、とんでもない窮地に陥った人がいる。自己の内側に在るものの質や量を知らぬまま進んだことで、一歩間違うと精神を壊してしまうほどの怖い経験をした。身近にいるということは世間にはこういう人がもっと多くいるのではないか、と思う。

だからこそ、まず何より「自己理解」が必要なのではないだろうか。

あなたが社会的成功を求める人ならそういう方法論が何より必要だろうし、あなたが社会的成功とはほど遠いところに幸福を見い出す人なら、全く違うものが必要だ。「がんばれ!」「がんばらなくていいんだよ!そのままでいよう」これらの言葉は同じ地点に立っているAさんとBさんであっても、全く違う意味を持ってしまうことがある。

自己理解をするとき抽象バイアスに引っかかることがある。認知バイアスといえばよいか。正しい分析には分母の数がとにかく大事。だからたくさん(別ジャンルの)本を読み、観察し、比較し、たくさんの(別の種類の人間による)意見や経験話を聞き、自身が(別の分野を)いくつか渡り歩いて知識と経験を重ねて、視野を広げておく必要がある。

……前置きしたとおり、今日書いたのはただの「ぼやき」なので真に受けないで軽くお聞き流しくだされば幸いです。誰もが真の自己理解の上に築いた不屈の自分軸とも呼べる「幸福」を手にすることを願っています。(それを何より必要としてるのはお前だろう? と私の中の私が言っている……。)