日記と雑文:悲劇的な贈り物+天才の共通点

※たくさん書きたいので書いていくけど、熱心に読んでくださる方もいて申し訳なく、自重すべしと思えど、最近ツイッター[現X]にほとんど顔を出さないせいもあり、ついここに書いてしまう。興味ない題はどんどん無視してください。
申し訳ないことだけど24時間ぶっ続けで文章書け、と命令されても平気で書き続けられるタイプの人間なので─ネタが尽きない─ 今後も本命記事のほか雑多な内容も投稿する。表現したい欲求が少し病的なの自覚してます。たくさん書いてごめんなさい。好きに無視してください。

詩を書くとは、哲学すること

英国ドラマ、警部であり詩人でもあるダルグリッシュ。妻と娘を突然に喪くし、ただひとり心の中で絶望と闘いながら正義を貫こうと生きている、寡黙で渋くて器の大きな人物。(見た目までカッコ良く品性漂う紳士でほんま惚れる…泣)

配信されてるシーズン2まで観て、まだ続くのかはわからないけど、シーズン最後の回のラスト。重苦しいドラマ展開の終着を見た段階で、刑事を辞める可能性について部下と語っていたときダルグリッシュが言った台詞が……あまりに深くて、胸が苦しかった。

「この仕事にとどまらなければ、私は心の暗いトンネルへ落ちていき──詩を書きながら絶望する」

日本語訳

実存的うつを持つ者にとって、実生活とのつながりがどうしても必要なんだと思い知らされる台詞だ……。現実生活の生物学的な意味での生々しい感覚や白黒解決という単純な疑問とぶつかっていかないと、心の深淵を覗いてしまうことになる。

詩を書くということは、哲学するということ。どこまでも闇の深みへ堕ちていけるということ。命の無意味さをディープに内部処理する能力を持つ者は、堕ちてもいけるのだ。
詩人ほどおそろしい芸術家はいないのかもしれないな。実際気が狂って死んだ詩人は少なくないだろう。(日本の俳句はこれを回避するために定型化したとも聞いた。)
そして、発達の可能性を秘めた人が分離の痛みを抱えている最中はほんとうに、生と死は隣り合わせなんだと改めて感じざるを得なかった。身につまされる。

物悲しく重厚なドラマ。原作小説はかなりの人気らしいけど、ここまで深みある人格を持った人間は現実にはなかなかいないと思える。作者自身がそういう人なのだろうな。

そして、改めてこんなことも思う。深い内部処理。激しい情動。哲学や芸術は、「自分」のことではなく「人間」を考えるということ。人間とはどうあるべきかを考えること。複雑な高感受性人間がこの過酷な現実を生き抜いていくには人格の成長が必要だということをまざまざと感じとること。……私は「ギフテッド」と言われる人々に、つまりこういう側面を見ており、それゆえに苦しみと同時に畏怖と愛を感じてしまう。知能が高いというより人間味が深い。深すぎる。ギフテッドの積極的分離の能力は、他でもない『悲劇的な贈り物』なのだと考える(Tragic Gift……事実、記事にそう書いてあった)。


とはいえ同時に、私自身は本当にギフテッドと関わりがない。それも強く感じる。やはりこの呼称の根本にあるのは高度に発達した頭脳なのだろう。私は頭脳が弱い。あ、こう言うのも問題か。でも、ただの平均頭脳だから、そういう意味ではまったく関係がないのだ。あるのは高感受性、高敏感性だけ。実存的うつの意味を感じとれる、彼らの痛みをいつまでも感じとっていたい強い願いがあるだけ。


天才の共通点とは?

茂木健一郎氏が自身のチャンネルで「天才の共通点とは何か?」というテーマで話されていた。歴史的に名高い天才がいる。ただし天才とひとくちに言っても、様々な分野があり彼らは様々に違う人生を辿っている。これほど違いがある彼らの共通点は一体どこにあるのか、という話だった。結論として、逆境を乗り越えるポジティブ能力を持ち合わせていることだとしていた。

そこで私が思ったこと。いや、思わず机をダン……ッと叩いて叫んでしまったこと。

「では、カフカは天才ではないというのか?!」
(わなわな)←震え

だ。(笑)

かの著名な作家、フランツ・カフカ。だって、絶望名人とすら呼ばれてしまうカフカの言葉に救われる人間は多いぞ。私は救われた。心の深部に沁みてくる。カフカの絶望ぶり(といっては不謹慎だが、深みにはまって抜けられない能力とでも言おうか)には人を癒す力があると信じる。

フランツ・カフカ(Franz Kafka、チェコ語: František Kafka、1883年7月3日 – 1924年6月3日)は、現在のチェコ出身の小説家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆した。どこかユーモラスな孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる[1] ような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。

Wikipediaより

むろん頭木弘樹氏の本の影響を受けている。複数著書があり、まだ全制覇していないがコツコツ読んでいる。

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いっとき私は、とあるプラットフォームに屯しておられた希死念慮を持つ方々とネット上で親しく交流していた。彼らには独特の優しさがあり、交信のさなか人間への慈愛に満ちた言葉がちょいちょい繰り出されるのがやけに愛しかった。私は突然友達を亡くして落ち込んだとき、日頃絶望して生きているとあるお方から言葉で救われた。そのとき頂いた言葉は今でも私の骨に刻まれている。

人を救えてこその天才だ、と思うところがある。
共通点はたしかに「ポジティブ能力」そう言えるのかもしれないが、苦境を乗り越えたのちに何をしたか、ここが肝心なのではないのかな。自分が苦しみを乗り越えたから、さあこれでお終い。……はどうなのだろう。

天才というワードを起点に、人間の価値という目線でもっとテーマを深掘りしていけば、苦境を乗り越えようと、乗り越える途中だろうと、途中にもいけず絶望の段階でもがいていようと、死の縁すれすれで叫んでいる人であろうと、同じ暗闇にいる誰かに価値ある何かを伝えているか、力を与えられる何かを表現しているか、誰かの心に灯りをともせているか、……これができるのが人間の真の才能ではないのかな。

カフカを忘れてくれるな!
そんなことを言いたいねこであった。

人は後世に何を遺すのか?

社会的にめざましい活躍をして何かを遺せる人もいるがそれだけではないと思う。もっと狭いコミュニティであっても、友人知人、息子や娘、孫であっても。最低でも何かひとつ価値あるものを誰かに伝えられる人になること。これが人の真の成長なのかもしれない。成長する(苦境を乗り越える)のはそのためだ。

利他の精神とは、自分の成長だけにとどまらず、成長できたその尊い力を他の誰かにも分け与えられること。

だから闇雲な自己犠牲とは違うものであるはず。

私はそこへ近づきたくてもがいている。もがけること自体が、──しあわせだ。

「痛み」と「喜び」を両方感じ取れること
これが『ほんとうのさいわい』ではなかろうか。