激しい創造性は諸刃の剣。映画「生きる」が基本。

ちょちょいと書く思考のまとめ:

「創造性」は人間なら誰でも持っているのでいつでも自由に発揮できる。

しかし「創造性」それ自体に善し悪しの意味があるのではない。

何にどれくらい発揮するかが人によって違う。発揮した内容にその人なりの意味ができる。みながみな一様に創造的になれない。それが普通。すべての人にとって創造性を発揮する方向性が同じではない。すべての人に当てはまる発揮の仕方や程度が決められるわけないし、本当にこの創造性自体がどんな人にもどんな状況においても「良い」ものであるはずがない。
みんな造りが違うからだ。みんな自分に合った創造性を自分の建てた軸の上で使うことになる。自分軸の上に発揮していくのが創造性の基本であり本質だから。(本物の自分軸を築くにはある程度の年月がかかる。)

例えば、安定した日々の暮らしだけに幸せを求める人ならば安定した暮らしのために使うのがその人にとっての良いことだ。絵を描いたり、フィギュアを作ったり、アクセサリー制作をしたり、インテリアを極めたり、家事や料理を自分なりに工夫したり。社会的地位の獲得や成功に重きを置く人ならビジネスで発揮することだろう。生き方で活かしたい人は、誰もしたことのない魅力的な旅を計画したり、職場の雰囲気を率先して良いものに作り変えたり。生活の質の改善、健康的な習慣、意義ある活動などに適切に創造性を使えるならその人はそれで「幸せ」になれるのだ。

一方、創造的能力を使って思考を突き詰めすぎ、現在自己を支えている倫理と価値観さえも破壊して、新たに作り直してしまう人もいる。突き詰めすぎて心の基盤である身体を破壊する人もいる。究極思考の果てに美学を見つけそこに陶酔し死という答えに到達してしまう芸術家や思想家や詩人は、いつの時代も世界に一定数存在する。これらの人は安住の暮らしとは違う何かを求めた。突き動かされる衝動に翻弄されて生きた。悲しいけれどそうするしかできなかったのだ。命の価値を説く賢者が、その人の本能や衝動性を果たして制御し得たか、甚だ疑問だ。

究極の創造性は諸刃の剣である。

『ほんとうのさいわい』を探求する生き方は、物語の中で示されたように、大変に孤独な道のりだから。孤独に耐え得る人になるには先天的、後天的に、様々な要素が必要になってくる。大人が考える『膨大な知識があればいい(※)』はその一部に過ぎない。

利己的に生まれついた人が利他的に生きられないのと同じように、生まれつき利己心の薄い人間は利己的な人のようには生きられない。サイコパスが生涯鍛錬を積んでギフテッドになれるか? 無理だ。逆にギフテッドが(サイコパスまでいかなくとも)ソシオパスやナルシストのように振る舞えるか? 否だ。その人は自分以外にはなれない。

みな持って生まれたものが違うし、生きる道が違う。
すべての人にとってこうするのが一番なんてものはない。創造的本能というものは、誰もが持つ全人類共通の能力でありながら、使い方も使う目的もみながみな違う。

イデオロギーの下で従順に、一般社会の価値観や組織に与えられたルールに沿って使いこなせる人もいれば、それができない人もいる。できない人に「ほどほどに」「他と調和させよう」が難しいように、一般社会への適合に重きを置く人間が「もっと創造性を強く発揮しよう」「今の人生観を破壊しよう」「別人に生まれ変わろう」は難しい。むしろしてはいけない。肩の力を抜いて生きるべし。

人間性は普遍だけれど、クローズアップで個々を観察すれば、みながあまりに違っている。創造性を仕事に活かして満足する人もいれば、生きる価値観を高次元へ更新させてゆく人もいる。

人間にとって幸福は絶対的共通目的ではない。悲しいことだけれど本能や遺伝に逆らおうとする外部から取り入れる「正しさ、こうあるべき」という善意に基づく助言は、絶対的効力を持たない。良いも悪いもない。ただただ、みながみな違っている、それだけのこと。最終的には善も悪もない。本当の幸せはその人にしかわからない。もし何が良いかを一つだけいえるとするなら、みながみなそれぞれ自分なりの創造性を追求すればよい、ということだと思う。

わかりやすいので、ここで人の欲求4タイプを使って説明を試みてみる(カーシーの気質論でも可能かもしれないが)。「司令型」にとって創造性とは、どこまでいってもイデオロギー的価値観の中での目に見える獲得や成功を意味するはずだ。それは値段や評価がつくもの。「注目型」は孤独な道のりの価値を想像すること自体がその生き方に反するだろう。よって社会的に価値のある創造性を魅力的に発揮して生きる。「法則型」にとって創造性とは最終的に精神の均衡をはかることに行き着くと思う。現実を崩壊させないバランス感覚が優れているからだ。「理想型」は突き詰めすぎて自滅する可能性を秘めているから危険性を見極めながら生きる必要がある。……こんなふうに人は客観視しているようで、一つの概念に対し、自分の無意識的欲求の型に当てはめて価値や評価をつけていく。(先日私が書いた文章は、ある意味、理想型人間の押し付け的価値観とも言えるものだ。)

またもし創造的本能を発揮する、の意味が分かりづらい人がいれば、「生きる」という映画が参考になる。この映画は、創造性を活かさない生き方と、創造性を活かす生き方が、一人の人間の生涯その終盤に焦点を当てることで見事な「対比」をつけて描かれている。打ち立てた自分軸の上で使うのが創造性。この基本構造をシンプルに徹して描いているから非常にわかりやすい。

創造的であるとはどういうことかの本質、基本構造を描いた映画だ。


(※)『HAPPY』の歌詞の一部。

膨大な知識があればいい 大人になって願うこと
心は強くならないまま 守らなきゃいけないから

BUMP OF CHICKEN

『生きる』に出てくる『ナナカマドの木』というスコットランド民謡、何度聴いても泣ける。

同じ世界に生きてるけど、人はみな別の世界を生きている。

ねこメモ。中卒女の頭の中。走り書き。本気にしちゃ駄目。