分離感の終わり
もう何ヶ月、一年以上でしょうか。古い自分と新たな自分との解離が生じてから、その感覚に苦しめられ続けてきました。今年の春、感受性の異変が起こり、二ヶ月後には静寂の二週間があり、そのあとにも不安定さが続きました。二つに引き裂かれていく分離感は恐怖と悲嘆を生み、それを繰り返してきました。落ち着いたと思ったらまた揺らいで、波のように変化し続けました。そのたびにこのサイトや他の場所も連動して変化しました。
けれどどうやら、古い自分は薄まって消え、最後残像のようなものが新しい自分へと取り込まれ収束をみました。内面に新たに生まれていた独特なもの──自分を統御するそれはいつもゆらゆらしていたのに、最近は揺らがず、どっしりと腰を据えたように感じられます。そして分離による恐怖と悲嘆はひとまず、もう起こらないだろうと思えます。
あれほど変わることに怯えてきたのに、いざこれが居座ったら意外と悪くないです。バラバラになっていた自分がきれいにまとまりとても穏やかです。古い自分に戻ることを望んできたけれど、やはりそれは叶いませんでした。対立する二つの力の差は歴然としていたので、なるようになったという感じです。そして新たな自分は想像していたほど悪くないことも知りました。
自己探求と書くこと
自己探求と自分について書くことは、どこかに「わからない部分」があるからこそ続くのかもしれません。理解者や共感を求め、そのやりとりに救われることもある。言葉というものが人一倍あふれてくる人間だったため私も長くそうしてきました。しかし何もかもが腑に落ちたら、「遺すべき言葉」以外もう書く理由はありません。
見つけた真実は心に深く染み込み、胸を抉るような痛みを最後に掘り起こし、それを涙に換えて流しきりました。最後にはわたしのすべてを包み込んでくれました。それは幼い頃から抱えていた原点であり、報われず亡くなった人と同一になる心、かつて私を宗教に入らせた「本物の良心」が見つけたひとつの境地です。
感受性の限界を試され死の闇を体験し、いまは揺るぎのない内面が仕上がり、旅は終わりました。創作欲求への執着も消えて、自分について言葉で何かを表現する必要は、もう微塵もありません。一つだけあるのは、「遺すべき言葉」です。
遺すべき言葉と今後
「ギフテッド」という呼称と、その周辺の語りに長く影響を受けてきました。今は背後にある因果の構造がよく見えるため、心は静かです。私が言葉にして残したいのは、自我を薄めながら真実へ向かう人に関わる原理です。本物の良心の働きが強くなる度に真実の人間になろうと変化していく機能を持つ人です。それは、Dąbrowskiのいう「発達の可能性(DP)」や「第三因子」と根本的に響きあうものです。幼少期から実存うつを抱え、人々に精神の階層を見て、自己超越の道を選び、帰属より誠実を選ぶ志向。その孤独の歩みに、言葉の道標を一つでも置けたらと考えました。
noteにアカウントを作ったときはまだ言葉に換えたい欲求がいくらかあり、かなり先まで一連の記事が頭の中で仕上がっています。肯定的崩壊について、その原理と思いを語ることが、わたしになせることだと感じます。ですが、自己探求の歩みを終えてしまったために、強い表現欲求というものは消えました。
わたしが「遺しておきたい言葉」を書くことに、どれほどの価値があるでしょうか。完全なる孤独の道を歩む者には、その人自身の力で見出すべき真実があるのに。自分自身の「書く欲求」と関わる部分では、もう何もないところまで来ましたが、誰かにとって価値があると思えることだけを厳選して言葉にしておくかもしれません。
いまは誰かと分かち合うものを持たず、静かでいたいので、このサイトもnote のアカウントも、自分にとってはうすい存在です。継続を約束するものではありません。ここまで目を留めてくださった方には感謝します。私の選ぶ静けさが、どこかであなたの静けさも守りますように。